振るい上げた拳が男の鼻っ柱に埋まり、
衝撃の音よりも先に男の鼻骨が歪む音がした。

痛そうだなとか、取り返しがつかないなとか、
そんな考えは欠片も浮かんでこなくて、
ひたすらな衝動と爆発した感情が自分の体を突き動かしていた。







 * 代弁者は誰だ







地面に散らばる点々とした血痕、無数の人間が踏み荒らした跡。
それらに視線を這わしながら案内されていた場所へ黙々と進む。
苦痛を訴える呻き声に視線を上げると、担架で運ばれている数人の男が目の前を横切った。覗き見たそいつらは、顔面を中心にした打撲と擦り傷、酷い奴は腕や足に添え木をされていた。
惨状に浅く溜息を吐いて足元の土を蹴り上げ、数滴の血痕を覆い隠す。

「ルーク様。」

歩み寄る自分に気づいた兵士の一人がすぐに駆け寄り敬礼をする。

「お待ちしておりました。」
「当人はどこにいる?」
「すぐあちらにおります。」

兵が指し示した場所は、数人の兵で壁ができていた。

「どれだけお尋ねしても何も答えられません。
 それと怪我の手当てもさせていただけていない状態でして…」
「…ご苦労。一度連れて帰る。
 一応あの連中にも話を聞いておけ。詳細を纏め次第報告をしろ。」
「はっ」

短い返事を残して兵は走り去る。
俺は視線も送らずに浅く、長く、溜息を吐いた。
これから迎えにいく人物のらしくない行動を思うと、感情が先走る。
歩む足を速めて割れた人垣の中に飛び込んだ。

「…帰るぞ。」

血だらけで蹲っている人間は、己の膝に顔を埋めたまま小さく頷いた。






伏せられえいてようやく上げられた顔は無表情のままで、殴られたのだろう青い痣ができている。
口の端と鼻の下に拭った跡があるが、そこに固まって僅かに残っているのは血だ。
引き千切られたボタンと赤い筋が浮き出ている肌。
白い服を彩る赤は返り血と、自分の血が混ざっているのだろう。
俺が使用していた宿の一室にある、備え付けの椅子に座らせた細い体は、何をするわけでもなく呆っとしていた。

「…いつまでそうしているつもりだ?」

腹に据えかねて問いかけると、沈んでいた視線がこちらへ向けられる。
自分と同じ色の瞳からの意思が読めず、苛立ちが増した。

「手当てをするなり着替えるなりあるだろうが。」
「…別に、なにも…」

掠れた声。
よほど声を吐き続けなければこうはならない。

「ルーク。」

咎める色を込めると、浮いた視線がまた床へ落ちる。
近頃では見なくなった卑屈な様子に、俺は深く息を吐いた。

「お前を殴ったのは全員か?」

ルークの視線が再び浮く。

「押さえつけたのは腕か?足か?その腹を蹴ったのはどいつだ?
 服に手をかけたのは一人か?二人か?肌に手を這わしたのは、全員か?」
「なん、だよ。」

訝しげな声。
俺は、そんな返答を望んでいるわけではない。
無気力な様子を鼻で笑って、組んでいる自分の腕に爪を立てる。

「お前が説明も何もしないのなら、俺は私怨であいつらの首を落とすぞ。」

それだけの力はある。それを成すだけの権力がある。
すぐに斬り捨てなかったのは、そうしたことでルークが気に病む姿を見たくなかっただけだ。
この現状を受け止めたままで、それを躊躇わないほど冷静な感情は持ち合わせていない。むしろあの場所で剣を抜かなかった自分を褒めてやりたい気分だ。

ふらふらと揺らいだ視線はその主の心情を表しているのだろう。
しばらくしてようやく言葉を発した。

「………風呂、入る。」
「―そうか。」

まだ沈黙が続くようだったら、このまま部屋を出て事情徴収を受けている奴らの元へ向かう気だった。
ああ畜生、腹の立つ。

言ったきりで動こうとしないルークを両腕で抱え上げる。
細く柔らかい体は怯えるように体を震わせ、そして躊躇いながら上げられた腕は、俺に触れることなくその胸の前で指を組んだ。
縋り付くことも甘えることもしない態度に、何度目かの苛立ちが生まれる。

俺が今言っても何も聞かないし、何も吐かないということは態度で窺えたので、脱衣所で下ろしてすぐにそのドアを閉めた。

背中をそのドアに押し付けて、俺は伝え聞いたことを反芻する。

始まった乱闘は初めこそ男たちの有利の状態だったが、途中から形勢が逆転したと目撃者が話していたらしい。
何が原因でこんな事になったのかはまだ報告されていない。
本人から聞くことが一番手っ取り早いんだが、肝心のその本人が貝になっている。あいつはあいつで強情なところがあるから無理強いもしがたい。

…それにしても、久しぶりに会ったというのに、こんな再会の仕方は無いだろう。
むかむかと腹を煮だたせる感情は尽きない。

「……?」

ふと、ドアの奥へ意識を向けると、そのすぐ近くに気配を感じ取った。
まさかと思い鍵もかけられていないドアを開けると、俺が下ろしたその位置から一ミリも動いていないルークがいた。

…何をしたいんだコイツは。

「ルーク」

返答も反応もない。
戸口から中へと体を滑らせ、俺は深く息を吸う。

「ルーク。」
「……俺は…」

声が震える。
俺の見ている目の前で、ルークは俺に背中を向けたまま首を深く折った。
その仕種で喉もとの言葉を腹の内に飲み込んだのが分かった。

「…なんでもねぇ。風呂入るから出てけよ。」
「いや、俺も風呂に入る。」

緩慢な動作で服を脱ぎ始めたルークを視界に止めたまま言い放ち、後ろ手でドアを閉めそのまま鍵をかける。
ルークは勢いをつけて振り返るが、俺も服を脱ぐ事で言葉を聞き入れる意思が無いことを表した。
非難めいた視線は正当な意見だというのに、その感情は吐き出されることなくまた飲み下されていった。

言えよ。吐けよ。

叫べばいいじゃねぇか。

上半身を覆う最後の一枚にもどかしさを込めて乱暴に投げ捨てて、服と同じようにブーツもその後を追わせる。
固く丈夫なそれが床にぶつかるゴツンという鈍い音に、細い体が脱ぐ手を止めた。
下着同然の格好で振り返り声を荒げる。

「でてけ。」

振り返った顔、首、腕や背中、体中に付けられた傷と痣。
服越しに張り付いた血。
傷口から滲み出た血。
そしてはにかむ気配も持たない表情。

ああ畜生。
何で俺がこんなに堪えなければならない。

「お前の体を洗うだけだ。全部は脱がねぇ。」

こんな怒りの感情を腹に据えたまま、事を及ぶ気にはならない。
それは慰めではなく、ただ自分の溜飲を下すためだけの行為に成り下がる。

「別にお前も、それ以上脱がなくてもいい。」

言いながらルークの隣を通り過ぎ、浴室の中にシャワーのコックを捻った。勢いよく吹き出るお湯の温度が安定するまで、それを手の甲に当てて確認する。
床に叩きつけられる水音に紛れた、ひたひたとタイルの目を踏みしめる足音を聞き取り、小さく安堵の溜息を吐く。

俺も警戒されやしないかなどと、危惧する必要も無いことを考えるこの状況に軽く眩暈を覚えた。






濁った錆色

煤けた土色。

水の筋がその体を這うたびに、どろどろと彩られて排水口へ流れていく。
乾いた血が混じり、僅かに色味を帯びた泡が浚われて、跡形もなく崩れ去る。

柔らかいシャンプーの匂いが自分に降り注いでくる今の状態が、やけに現実味を帯びないのは、俺が逃避でもしているのだろうか。
目の前にある細い窪みに伝い流れた泡が、同じ進路を辿った水に押しやられて更にその下に流れ落ちる様を見つめながら、俺は頭の中で解釈をする。

ぼたぼたと落ちてくる水を吸ったズボンが気持ち悪い。
つい先ほど打ち付けた後ろ頭がひどく痛む。

だがそれ以上に、眼前に晒されている細い腰が、ついと視線を上げれば近すぎて今の視界に納まりきらないほどの滑らかな肉塊が、酷く目に痛かった。

シャワーの口が取り付けられている壁に背中を預けている俺に、膝を立てて覆い被さった体は何も言わずに壁に手を着いていた。

…まぁ行動に移しただけでも進歩だ。
だんまりを決め込まれるより突っかかりようがある。

…かなりの苦行を強いられてはいるが。

「……言いたい事があるなら、いくらでも言え。」

怒りもしなければ嘲りもしない。
だから

「一人で溜め込むな。」

ややあって浮いていた腰が俺の足の上に落ち着く。壁を滑って下りてきた掌は両肩に置かれ、今まで見えなかったその表情が目の前に晒される。

何かしらを堪えた顔。

俺は右手を伸ばし青痣の濃い左の頬を撫でる。
降りかかるお湯よりも熱い肌を掌で覆い、それを後ろ頭に移動させて自分の胸へと引き寄せた。
額が髪の毛を挟んでぶつかる。

「……硬い。」
「柔らかいなんて言われたらキレるぞ。」

押し付けられた皮膚から微かに笑っている振動を感じとり、空いている左手を濡れている背中に延ばす。緩くさすってやれば、僅かに張っていた背中の緊張が解けていくのがわかった。
温度差のあった皮膚同士が、触れ合っていることで境界が曖昧になる。
ルークが深く息を吸って、短く吐いた。
ようやく覚悟を決めた。

「あいつら、レプリカの女の子を一人殺した。」
「…」

水の音が遠くなる。

「やめてって言ってたんだ。
 なのに、あいつら…笑いながら…」
「それは、お前が殴られる前か?殴られた後か?」
「…後。」

左腕を延ばして細い腰を引き寄せる。同時に頭を押さえていた右手を浮かして、顔を肩口に埋めさせる。
薄い布越しに密着する体は全体的に熱を帯びていた。

「守ろうとしたんだな。」
「…うん」
「間に合わなくて悪かった。」
「…ううん。」

短い返事を漏らし、俺の両肩を掴んでいる掌に込められている力が増える。
それは言葉にならない感情だ。

「…増えるだけ」

吐露できない感情が声を震わせる。

「…ッ…増えるだけ増えて、集団自殺。」

怒りか悔恨か。

「俺たち『レプリカ』は、『レミング』だってよ。」




増えすぎると、パニックを起こして海や川へと身を投げるネズミ。


なんて笑えない揶揄だ。





レムの塔で犠牲になるレプリカの一人が言った。

『我々は、我々の屍の上に国を創る。』



国とは何だ。
土地か。
王か。
民か。
『多』を『個』としてひと括りにする総称か。

『個』が拠り所にする安寧の場所か。





「…あの時のレプリカも、守ったんだな。」

血を流し己を省みることもせずに、細くなった両腕を広げて音譜帯へと溶けた奴らを守ったのか。
…妬いていないといえば嘘になるな。

「…助けられなかった…」
「…そうだな。」
「やめてって言ってた。俺だけしか助けられなかったのに。」
「お前はあいつ等の尊厳を主張して、それをちゃんと守れたんだ。」

上半身を壁から浮かし、宥めるように動かしていた左手を止めてきつく抱きしめる。
そして目の前にある薄い肩に軽く唇を落とす。

「傷が消えようと残ろうと、その事実は揺るがない。」

体の傷はすぐに消える。
与えられた言葉の傷はいつまでも膿み続ける。

「ぅ、うぅっ」
「…お前は間違ってない。
 よくやったんだ。ルーク。」

肩を掴んでいた両手が離れ、背中へと回される。
噛み殺された嗚咽と力の込められた腕。



回線を繋がなくても流れてくる「悔しい」という感情。



「うぅぅ〜ッ!」




水音に溶けることのない声を振動として受け取りながら、自分の足へ降り注ぐシャワーを見つめた。
触れ合った肌から、傷を負った体の生み出す熱が伝染する。





否定をするなと叫ぶ声。

認めないと嘲る声。




発生源は二極する。








2011/10/25:再UP
 背負うもの。背負ったもの。
 生を戴くこの命が、手放すわけにはいかないと、しがみつく義務。
 笑うな。嗤うな。
 是を笑う権利はお前らには無いんだ。