14.ベナースフ




灰を水に溶かしたように霞んだ視界。

立ち尽くしている俺の目の前に、人影が一つ浮かんでいた。
そいつは、まるでガラスを一枚を隔てているように不明瞭で朧気だ。
俺が感じ取る風は無いというのに、人影の足元では揺ら揺らと植物のようなものがざわついている。
「ようなもの」というのは、辺りが暗くて形などがはっきりと見えないからだ。

人影がコチラへ向かって、肩を怒らせて叫ぶ。

その口から発せられた振動はわかるのに、それは音にはなっていない。
俺が、聞き取れないだけなのか。

人影は己の頭を両手で掴み、まだ叫ぶ。


…聞こえない。


しばらく叫び続けた人影がふと、その動きを止める。
戸惑うような空気を纏い、数歩後ずさる。そして首を横に振った。

「…何がしたい?」

俺が叫ぶと人影は首をかしげる。
そして、一度大きく息を吸って叫ぶ。



 お前なんか



声ではない。
直接頭に焼き付けられる言葉。



 大嫌いだ!!



「な」



 ぷちっ



見ず知らずの人間(らしきもの)に罵倒され、誰が平静でいられるか。


「んだと貴様ぁぁぁっ!!!」
「おわっ!?」

思わず叫んだ自分の声に紛れた驚愕の声で、はたと現実に戻る。
高く昇った日の光に照らされている、見慣れない静かな色合いの部屋。
そして、勢いよく起こした上半身の目の前の戸口に、ガイが胸元を抑えて立っていた。

「お、お前なぁ!」

ガイは音を立てずにドアを閉めて、つかつかと俺が寝ているベットへと歩み寄る。

「寝ぼけるにしたってもう少しまともな寝ぼけ方しろよ。
 心配して入ってみて、いきなりああだと俺の心臓が持たないぞ。」

夢。そうか、夢か。

自分が普通の人間よりも怒りの沸点が低いことを自覚していたが、まさか現実にまで引っ張るとは思わなかった。
自己嫌悪を紛らわすように拳を眉間に押し付ける。

「…悪い。」

出そうになる溜息を飲み込みながら謝ると、そんな俺を見たガイが溜息をついた。
思わず、くすぶっている腹立たしさを込めて睨む。

「なんだ?」

睨む俺の目から視線を外さずに、目前にまで迫っていたベットに腰をかける。
そして、念を押すように聞いてきた。

「具合が悪い、とかじゃないんだな。」
「寝起きは最悪だが好調だ。それがどうした。」

そこで、ガイが指した時計に目を向ける。
いつも起きる時間より三つほど進んだ短針に息を詰めた。
後にも先にも、平常の時にこんな時間に目覚めたことなどない!

「心配した理由がわかったか?…メイド達がいくら声をかけても起きないって言って、俺に泣きついてきたんだぞ。」

一瞬その表情を横切った恐怖の色に、複数の女性に詰め寄られたガイの姿を見た。
だいぶ慣れたようではあるが、女性恐怖症は完治はしてないんだな。

「………気付いていなかった。」
「それだけならいいんだ。」

夢だけが鮮明に残る頭で心当たりを探すが、メイドたちの声など片鱗も存在しない。無事を確認したガイは笑顔を浮かべて腰を上げる。

「ならそろそろ準備を始めよう。
 今日中にエンゲーブへ行くんだろう?」
「ここでの仕事が終わり次第だがな。」

3時間を越える時間のロスは痛い。
再び痛くなってきた頭を押さえつつ、俺はベットから足を下ろした。視界に入った窓から差し込む日差しは、ずいぶんと狭い面積を温めている。
実感する時間の経過にげんなりとして首を軽く振る。

「ま、お前なら平気だろ。」

苦笑の混ざったガイの呟きを遠く聞いた。



閉まるドアを見届けて、すっくと立ち上がる。
そして近くに置いている水盆で寝起きの顔を引き締める。
寝巻きをすぐに脱ぎ捨てて、昨日のうちに置いていた服に腕を通す。毛先を切りそろえたばかりの髪を片手で掴んで襟から救い出し、金具やボタンを留めていく。
一人で生活することが長かったため、服の着脱にメイドを部屋に入れることは殆んど無い。
キムラスカの国が好む赤と黒の配色の服は、今の自分を構築した10年近くのその生活を思い出させた。
喉の奥で軽く笑って、備え付けられている鏡の前で前髪を掻きあげる。


そのスタイルは、己がルークと呼ばれることへの静かな反抗だった。


名前というものが縛るものが、どれだけ人間を構成し、どれだけその人を社会に食い込ませる根底になるのか知っていた。それに固執することは決して罪ではなく、むしろ理性を正常に持つものならば当然のように守ろうとする光源だ。
だから名前の詐称で人は裁かれる。

そうそれは、決して誰とも共有することのできない光。

ベルトを音を立てて留め、そこにベットの傍に立て掛けてあった剣を差す。
確かなその重みを確認して、サイドボードの上の小さな包みを懐にねじ込む。

忘れようと、隔絶しようとして、その名前で括られた運命ごと切り捨てた。

そんな自分も、結局光に固執した。


固執して、ぶつかって、決着をつけた。




そして理解する。

人を二人許容出来ないほど、この名は軽くないのだと。





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2006/09/01
 うちのアッシュは自分が「ルーク」と呼ばれることを善しとはしていません。
 存在を括るための名前なのか、名前は存在の付属なのか。一般人なら同姓同名とかで面白いんでしょうが、そんな簡単にはいかないでしょう。
 私的には、アシュにそう簡単に「ルーク」という名前を「ルーク」へと譲って欲しくないんですよね。
 なので、一人称三人称・名前が混合するひどく読みづらい表記が続きます…申し訳ない!